少年部の稽古でも、一般部の稽古でも同じことですが、どんなに技の説明に工夫をこらしても、こちらの思いが伝わらないことが多いのを痛感します。説明の未熟さを差し引いても少しは心に響いて欲しいと思うのですが、大別すると全く心に届いていない人、届いていると思える人、確実に届いている人、この3つのパターンがあるようです。
小学校高学年の子でも一つの技の注意点は繰り返し、繰り返し言うのですが止まることがありません。その日は良くても、次の日はまた元の木阿弥の子が多いのです。注意したことをすぐに直してくれる子は、ほんとに少なく、しっかりしていて、何事も頼りにできるという印象を与えてくれます。
高校生、社会人の稽古でもそれは変わらないようです。ウシオ電機会長の牛尾治朗さんの言葉です。『底に学びたいという切実な思いがなければどんないい先生についても駄目ですね。同じ人に会っても、そこから多くを学んで身につける人もいれば、素通りするだけの人もいます。どこが違うかというと、それは求めているか否かです。』強くなりたい、上手になりたい、覚えたいという気持ちが強い程、吸収が早いのは当然のことでしょう。
また、大先生は、『私は今までに三千以上の技をつくりだしたけど、それは合気の発達の歴史みたいなもので、大部分はヌケガラ。だから一つの技に執着し、停滞していると、どんどん遅れてしまう。日に新たに、また日に新たなり、の精神が肝心』と言われました。
一つの技が変わらないという事は、何も考えていないことと等しく、自分の技が変わっていくことが、自分自身の変革に繋がって行くのだと私は確信しています。
