第205回 千里の道

 このコロナ禍、合気道中心の生活が一転し、解体作業中心の生活になってしまった。令和二年十一月から始めた“ひとり家屋解体作業”だが、いくつかの難題をクリアし一年三ヶ月でようやく基礎部分と廃材処分を残すのみとなった。しかし、最終の更地になるまでには、まだ道半ばのように思える。

 作業現場に行く度に、“千里の道も一歩から”の言葉が頭に浮かんでくる。この言葉の語源は老子の「千里の行(こう)は足下(そっか)より始まる。成す者は之を敗(やぶ)り、執(と)る者は之を失う。」による。これは、「千里の道のりも足下の一歩から始まる。うまくしてやろうと力む者は失敗し、握って離すまいとする者は取り逃がす。」と訳されている。無為の聖人の人生態度を説いた一節だが、合気道の稽古態度にも置き換えることが出来るのではないか。

 千里の道を一歩一歩進むと、道を間違えさえしなければ、目的地は見えなくても、一日歩いた距離だけ近づいていることは実感できる。合気道の稽古ではどうだろうか、一日の稽古でどれだけ近づいたか実感できるだろうか。出来なかった技が出来た時、誰と稽古しても失敗しなくなった時、技を理解することが出来た時は、大きな喜びと共に大きな一歩を感ずることができる。そこに至るまでには、弛まぬ技の探究心と足踏みのような小さな一歩の積み重ねが必要。

 投げることだけを考えていると、力に頼ってしまう。相手の受身の身体は強引な力に反応し、自然と倒されないように変化するのではないかと考えている。力を抜いて投げることが理想だが、力の強い人にとっては実現はとても難しいこと。そこで、“何処でどれだけ力を入れるか”に視点を変えてみよう。力を入れる必要のない所を見極め、力を入れる場所・時間を短くする。さらに、瞬間的に出す力を徐々に小さくすることで、無駄な力を無くすことを目指すのが良い。

 最後に、人の手は一度握ったものは離せなくなり、掴んだ所に意識が留まり、とらわれ、全体が見えなくなってしまうと考えている。掴む所と触れる所を区別して稽古する必要があるのではないか。

2022年2月6日 | カテゴリー : めざせ達人 | 投稿者 : koukikai