稽古を再開して、一ヶ月になる。コロナ対策を実施しながら稽古を行っているが、慣れてくると気持ちも緩みがちになる。密集状態に気付かなくなるので監視の目と、一人一人の意識に訴え続けることが必要と感じている。
広島市から非接触式稽古を要請されたため、棒を使用しての稽古を工夫してはみたが、万能では無いので出来ない技が多い。いつまでこの状態を続けるのかと思うが、剣と杖の稽古に取り組む絶好の機会と思えば苦は無い。合気道を理解するために剣は必要条件、剣を扱えるかどうかで合気道の技は変わってくるはずだ。持論ではあるが、剣術は体術より線が細く、しかも鋭いという認識を持っており、剣を知るものと知らないものの間には、大きな隔たりが生じると思っている。まずは、袈裟斬りが出来るようになることを目標にして欲しい。
コロナ禍のこの時期では昇段昇級審査を行うのは無理があるが、夫婦、姉妹の家族であれば問題ないと考え、ご主人に受け身を取ってもらい審査を行った。会員の皆さんは指導者の鏡であり、審査や演武の内容は指導内容の大部分を写したもの。技に不備があれば、それは指導の不備となるので、現実を謙虚に受け止め、改善を図らなければならない。
前回は坂村真民の名刀であったが、私はこちらの詩の方を好んでいる。
鈍刀を磨く
鈍刀をいくら磨いても 無駄なことだというが
何もそんなことばに 耳を借す必要はない
せっせと磨くのだ 刀は光らないかもしれないが
磨く本人が変わってくる つまり刀がすまぬと言いながら
磨く本人を 光るものにしてくれるのだ
そこが甚深微妙(じんじんびみょう)の世界だ だからせっせと磨くのだ
どんなに頑張っても報われないとき、この詩に救われる。もちろん、合気道においても磨けば磨くほど本人は光り輝やき、磨き方を間違えなければ技も冴えて来る。