山口先生の思い出

寄稿して頂きました古谷先生に深く感謝いたします

山口先生の思い出 古谷貞雄

 私が山口師範のことを知ったのは、昭和52年「正食」(正食協会刊)という"食養=食事療法"雑誌に掲載されたものでした。その頃、なんとなく神秘的な武道としてみられていた合氣道が、よく知られるようになってきた頃だったと思います。しかし"試合のない"合氣道に関する記事や資料は余りありませんでした。それだけに2~3頁の写真入記事をむさぼるように何度も読みました。その体捌きの実に自然で、どこにも力みのない姿勢に驚き、「私もこの様な体捌きが出来たら、否、ぜひしたいものだな」と思っていました。  やがて、広島県支部で直接手を取って稽古して頂ける機会に恵まれました。前載記事「我即宇宙の体現」にあった内容に「道場中央で、何かボソボソと聞きとれない声で、稽古をつけているその人が山口清吾師範であることはすぐ分かった。……」「……(山口師範の技は)実に速く、実に的確に決まり道場生が右に左に飛んでいく。どんな技を、どう仕掛けたのか、素人目にはさっぱり分からない。余りにも速すぎる。……山口師範は説明しながら技を掛けるのだが、声には荒々しさが微塵も無い。普段と変わらないであろう声で淡々として技を掛け、相手を投げ飛ばしている。投げ飛ばされた相手はビッショリと汗をかき大きく肩で息をしている……」。さすがプロの記者の文章は上手い。稽古はまさにこの描写の再現でした。

 「聞き取れないボソボソ声」。自分だけかと周りの人に聞いても、皆んな言われていることが分からないという。その上、他の師範のようにきまった型の稽古ではない。はじめは一つの技の説明から入られるけれど変化してしまい、何をどのように稽古してよいか分からず、戸惑っているとスッーと来られて投げ飛ばされる。いくら受身をとっても、いつ・どのようにされて投げられたのか・捌かれたのか、一向に判りませんでした。それがまた何とも言えぬ快感である。「グシャッ」という感じでボロ雑巾のように投げられても、とにかく心地よい気分で至福感を味わったものです。ところが翌々日になって身体の節々が痛んだのには閉口したものです。
 吸い込まれるようにフワッと地上30センチ位のところで一回転させられる。そうかと思えば、手が添えられ触れているだけなのに、どんなに足掻いても逃れられない。師範の受身は、弐~参段以上の者が指差されてするのですが、師範の背筋はピッとして実に見事なのに対して、足元ではジタバタと、本人は真剣なのに滑稽にさえ見えてしまう。

 今にして想うに、「聞き取れない説明」というのは、「技の説明は言葉でいくら言っても分からないヨ。体で覚えることだヨ。」と語っておられたように思えるのです。とはいっても、次から次ぎへと矢継ぎ早に技だけ示し、投げ飛ばしていたのでは、ますます門人達は分からないので、間を取る意味での説明時間であったのではないだろうか。そのように考えてみると、その「意味」が活きてくる気がします。そして、合氣道開祖植芝盛平翁が、「合氣道にきまった技はないのじゃヨ。動くところに技が出来るのじゃ」と言われたことも重なって、山口師範のお姿が私の脳裏に生き生きとして浮かび上がってくるのです。
 最近、自分で”合氣道教室”を主宰するようになって、”山口清吾師範”から道場で身をもって教えられたこと、また道場外で個人的に質問すると、徹底的に、時の経つのも忘れ、口角泡を飛ばしながら全身全霊で答えて下さり感激しつつ学んだこと、その一端でも皆さんにお伝えしたいと説明するおり、改めて自分の未熟さを知る反面、自分なりに修得したつもりであったけれど、どうしても理解できなかった体捌きを「なんと体が覚えていること」に気付きました。遅まきながら、師範の教えが実に素晴らしいものであることを実感している昨今です。私も合氣道をライフワークと位置づけ、もっともっと稽古を重ね深く高く体得し、山口清吾師範の合氣道に対する情熱に少しでも近づけたらと思います。

(ビバ合氣道教室ひろしま&福山合氣会道場長 古谷貞雄)

最後の稽古 大畑博

 当時の生田合気道同好会は、レスリング部の道場を借りて、昼休みの一時間を稽古していました。入部した数日後、新入部員で道場の掃除をしているところにフラッと入って来られた中年の男性を見て、「どこのおじさんだろう?」と思ったのが山口先生の最初の印象でした。師範を見て入部した訳ではなかったので、卒業して初めて、自分たちがどんなに恵まれた環境で稽古してきたかを、知る事ができました。 一年生の入部して間もない頃、一教の稽古中、山口先生が直接私の手をとって指導して下さいました。しかし、この時は緊張のあまり”どうなったのか”全く覚えていません。時々、思い出しては残念がっています。合気道の稽古の楽しさ、そして先輩・同輩との楽しいひと時が私を合気道の虜にしてしまいました。本部道場、池の上、渋谷、港区と稽古に明け暮れ、三年生の時には本部道場の近くに下宿までしてしまう程でした。

 三年生の時、本部道場で稽古の後、『相撲をやろう』と言う先生のお誘いの声。先生は両手を畳につけて体勢を低くして構えておられます。まずは、一年上の先輩がお相手しましたが、先生の身体に触れる前に畳に手をついてしまいます。何度挑戦しても同じです。私も先生のお相手をしましたが、先輩と同じ結果でした。先生の『はっけよい』の声、先生めがけて勢い良く立ち上がる、でもいつの間にか私の肩に触れた先生の片手が力を奪い、畳に両手をついてしまいます。なんとなく負けたようで、はっきり負けたという自覚がありません。”本当は遠慮して、わざと負けたのではないのか“と自問自答したのは私だけではなかったようでした。
 稽古中は先生に投げて頂くのがとても楽しみでした。また、投げて頂く回数が少ないとがっかりもしたものです。先生の手を握ったはずが、、、気がつくと畳の上、、、そんなことが何度もありました。しかし、稽古中、受けを取らせて頂く時はとても緊張しました。先生の言葉を聞き取る事に懸命でしたし、下手な受けを取ってしまうと即座に先生は背を向けてしまわれるからです。

 平成七年の広島での講習会が先生との最後の稽古となりました。先生の肩をつかんだ瞬間に私の体が浮き上がり、気がついた時は先生の後方に転がっている。いつも何故そうなったのか理解できない。厳しく鋭い投げだけど、何故かとても心地が良い。このように感じた事は山口先生以外にまだありません。 この最後の稽古で生涯忘れることができない出来事が二つありました。一つは、受身の後、私の片足をつかまれた時でした。先生はいつものような笑顔でなく、真剣な表情で私の片足の指先をつかまれました。すると、私の体は全く力が入らず、動く事ができません。わずかに首を持ち上げるのが精一杯でした。これは初めての体験でしたし不思議な感覚でした。
 もう一つはとても柔らかい先生の手でした。握った先生の手首が女性の手のように柔らかいのに一瞬ハッとしました。力強く握ったにもかかわらず、全く力みのない手でした。その感覚が今でも残っています。
 平成七年十一月の稽古は私にとって、強烈な印象を残しましたが、その二ヶ月後、七十一歳で他界されました。この稽古で感じた事は、先生から頂いた最後の教えとしていつまでも心の中に温めておきます。
  山口先生、本当に有難うございました。心よりご冥福をお祈り致します。

(合気道光輝会師範 大畑博)