第194回 重い

 三寒四温の中、少年部六年生が卒業を迎える最後の月となった。六年生五名のうち一人は五歳から稽古を始めていたので、その成長過程を見ることができた。特に四年生になって、合気道の上達に目を見張ったのを覚えている。昨年のことだが、手本の技の受身にその子を指名し、大人と同じように手加減せず投げてみたところ、難なく受身を取って平然としていた。ところが翌日、身体に痛みが残っていることで、力一杯投げたと追求され“ゴメンゴメン”と平謝り。
 子どもとは違って、大人では階段を一段上るような、上達の瞬間をみることがある。合気道の上達は、右肩上がりの直線ではなく、長く平らな線が続いた後、階段のように上がるものと私は考えている。投げた時に感じる相手の重量感、“軽い”または“重い”がある。最近、その“重い”と感じる瞬間があった。素手での呼吸投げと同様に、杖からも受身を取った相手の重さを感じることができた。
出来なかった技が徐々に出来るようになるのとは異なり、この階段を一段上る瞬間を自分自身が感じることは出来ないと考えている。二教が出来るようになるとか、回転投げが出来るようになるというような表面的な技の上達は自分自身でも認めることはできる。その上達の裏には、稽古を積むと徐々に重心が下がり、手足がバラバラに動くことなく身体全体がひとつにまとまってくる、と言うような状態が起きていると考えている。その状態が進んでいくと、自分が受身を取った時、投げる相手は重く感ずるようになる。これは体重による“重さ”とは感覚が異なる。“重くなった”は自分では無く、相手が感じることで、そのように言われることは最上級の褒め言葉だと思う。これはあくまでも私見。
 いつも稽古している相手が重くなったと感じ取ることができるのは、多くの人と稽古を積み重ねた後に身につく力で、人を感知する大切な力。また、自分自身の癖や出来ないところ、良いところを知ることは、もっと大切なことだ。老子は次のように説いている。「人を知る者は智(ち)なり。自ら知る者は明(めい)なり」

2021年3月6日 | カテゴリー : めざせ達人 | 投稿者 : koukikai