第66回 秘伝の声

つまるところ、剣の修行をすることによって、「自分(おのれ)の身体の仕組みをわきまえ、そのはたらきを知る。これが、はっきりと呑み込めてくるならば、自ずと、心のはたらきに狂いを生じなくなるものだ。」

毎日の通勤電車のなかで読むのを楽しみにしている、池波正太郎さんの歴史小説。タイトルに誘われ読み始めた「秘伝の声」に折り目を入れたページが、この一節。おやっと思い、もう一度読み返して、“そうだ”と感じた。作者は16歳から18歳までの3年間稽古して剣道初段とのことだが、一流の作家ともなればこれくらいのことは書けるのかと感心してしまう。

この小説の話に戻ると、江戸の郊外に小さな道場があり七つ違いの若い二人の弟子がいた。師匠は臨終の際に、手にしている古びた虫食いのあとのある巻物を一緒に墓に埋めてほしいと遺言する。しかし、その夜、巻物がなくなり兄弟子の姿も消えていた。時を経て、巻物は弟弟子の手元に戻ってくるが中を見ることなく遺言どおり墓に埋めてしまう。江戸で、ある道場を受け継いだ兄弟子は刺客によって命を落とすが、臨終の際に、あの秘伝書の巻物は白紙であったことを弟弟子に打ち明ける。

秘伝書を手にしてそれを開かない者はいない・・・極意を得るためのカギがあるのなら・・・と思う。しかし、亡き師の教えを守り、それ以上のことを望まない弟弟子の生き方に秘伝書は必要ない。生まれもって無欲の人間に設定されている。現世では、欲から離れることができずに、どれだけ多くの苦しみを味わっていることか。

「秘伝の声」のなかには秘伝書を白紙としたいきさつは書かれていないが、最後に、白紙の秘伝書を知った弟弟子に言わせている。

ただ、「人の心は、いつまでも、白紙のごとくあれ」という
亡き師の声が聞こえてくるような気がしてならない。

 

 

2010年5月31日 | カテゴリー : めざせ達人 | 投稿者 : koukikai