第189回 本物

 益田の我が家は、およそ築百五十年になる民家。玄関を入ると八畳ほどの広さの土間があり、見上げると剥き出しになった大きな梁組が見える。この梁からロープを垂らしてブランコをつくり二歳の孫を楽しませている。しかし、使い勝手は悪かった古い民家だったが、快適な空間にリフォームしてくれた建築家に、先月来て頂き、空き家の相談にのってもらった。帰り際に「ここは本物があるから良い」と言われた。本物とは建築の世界での話と感じたので、それ以上は問い質さなかった。

本物という言葉が心に響いた。いま、自分は本物になれるように生きている、本物の合気道を目指して稽古している、だろうかということが頭を駆け巡った。本物になるために必要なことは感覚を研ぎ澄ますこと、針が落ちる音も聞き取れるように。稽古のなかでは、力を抜き、感覚を研ぎ澄し、相手の動きを感じ取ることができるが、針の音は聞こえてこない。山中で座禅を組むことが良いようだ。しかし、これを実行することは尋常なことではない。

常識的な日常生活から離れた生活を送る必要があり、そのための覚悟が必要と考えている。別の言い方をすると、“狂”となることと言っている人が居る。この狂について、古代ローマ時代の哲学者セネカの言葉がある。「人間にはもともと狂った部分がある。狂っている時が一番健全で正常なのである。」この意味は、一番大きな狂いは何かというと、狂えないこと。冷めた目でしか物が見られないから、平気で人を殺めたり、傷つける。だから本当は、狂は悪ではない。話はそれるが、セネカはその他にも名言を残している。例えば、「どんなに豊かな土壌でも耕さなければ実りをもたらさない。人の心も同じである。」

 コロナ禍にあって思うことは、何としてもクラスターを発生させることなく稽古を続けること。コロナを気遣うことなく稽古できる時が来ることを切に願っている。しかし、通常稽古では得ることができない、針の落ちる音を聞くことができる感性を磨く必要があると感じている、本物になるために狂となれ。

2020年9月5日 | カテゴリー : めざせ達人 | 投稿者 : koukikai