今にして想うに、「聞き取れない説明」というのは、「技の説明は言葉でいくら言っても分からないヨ。体で覚えることだヨ。」と語っておられたように思えるのです。とはいっても、次から次ぎへと矢継ぎ早に技だけ示し、投げ飛ばしていたのでは、ますます門人達は分からないので、間を取る意味での説明時間であったのではないだろうか。そのように考えてみると、その「意味」が活きてくる気がします。そして、合氣道開祖植芝盛平翁が、「合氣道にきまった技はないのじゃヨ。動くところに技が出来るのじゃ」と言われたことも重なって、山口師範のお姿が私の脳裏に生き生きとして浮かび上がってくるのです。
 最近、自分で"合氣道教室"を主宰するようになって、"山口清吾師範"から道場で身をもって教えられたこと、また道場外で個人的に質問すると、徹底的に、時の経つのも忘れ、口角泡を飛ばしながら全身全霊で答えて下さり感激しつつ学んだこと、その一端でも皆さんにお伝えしたいと説明するおり、改めて自分の未熟さを知る反面、自分なりに修得したつもりであったけれど、どうしても理解できなかった体捌きを「なんと体が覚えていること」に気付きました。遅まきながら、師範の教えが実に素晴らしいものであることを実感している昨今です。私も合氣道をライフワークと位置づけ、もっともっと稽古を重ね深く高く体得し、山口清吾師範の合氣道に対する情熱に少しでも近づけたらと思います。 (ビバ合氣道教室ひろしま&福山合氣会道場長 古谷貞雄)